uTSUWA ROAD (ウツワミチ)

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2010.07.03 Twitterに・・・

Twitterに移行します。

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気が向いたらどうぞ。
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[tSUBUYAKI]

2010.05.28 「道具を作る」・・・

「茶道具を作る」ということは、簡単に言えば前出の利休と長次郎の[sYSTEM]を思い浮かべて頂ければいい。

まあ他のパターンもあるかと思うが基本的には



ある茶会や茶席を想定してその道具類を考える。



それに合った[dESIGH]を考える。



職人に作らせる。



出来上がった[mONO]の中から意にかなった[mONO]を道具として取り合わせる。




という感じか。新しい調和を考え、色々なバランスの中に「新しい美意識」を生み出そうとしたことで、今までに無い[mONO]の出現に至ったのだと思う。

完成されるまでの経緯は違っていたかもしれないが、「黒楽」であり「志野」や「織部」がその代表で、想像を膨らまし考えに考えられて出来上がった[mONO]達がそれにあたりその一連の仕組みというか「流れ」が「道具を作る」ことであると思う。




ここで重要なのは「楽」で言えば「利休」、「織部」で言えば「古田織部」といった「茶」に精通し且つ「遊べる」だけの「趣」や「粋」を理解していたであろう人物がいて、現代で言えばディレクターやプランナーというかデザイナーというような存在であったことである。

その存在が誰であれ「茶道具を作る」ことには欠かせない[pOINT]であるのには今も変わりないはずである。

それらをふまえて考えると「茶道具を作る」ことと「見立て」の違いが明確になってくるかと思うが、最近流行りの「見立て」の考え方や捉え方に違和感を感じざるを得なくなってしまう。





ではなぜ「今風の見立て」やそういう「茶席」に違和感を感じるのか?




それはただただ「見立て」の解釈の違いであり言い換えれば「いい加減」とか「適当」といった感じの考え方に他ならないと感じる。








本来の「見立て」と今の「見立て」の解釈の違いがその「違和感」であるので、次はそれについて[tSUBUYKI]しようと思う。








[tSUBUYAKI]

2010.05.25 「二つの違い」・・・

「茶道の由来やその変遷を知ること」をふまえた「二つの違い」というと何だか堅苦しい気がするが、「茶道」を100%理解(まあ到底無理な話でもあろうが)している訳ではない私がたいそうなことを言える立場ではないので簡単に・・・




天目茶碗というその名の由来からもあるように古の中国に「茶道のルーツ」はある可能性が高いと思う。本来お茶は「お茶」ではなく「薬」でありなかなか入手困難なもので、その頃のお茶は今言う中国が起源ではなくインドやもしくはその近隣諸国からもたらされたものではないかと推測できる。


古代中華のお寺で「薬」を振る舞ったことが「お茶」の始まりで、その形式が「茶道」に繋がる起源であると考えられる。以前「四つ頭茶会」というお茶会を拝見したことがあるがその辺りが「茶道のルーツ」に近いのではないかと思う。



話が大きくそれてしまいそうなので「お茶」に関しての話は・・・(ご関心がおありの方はご自分でお調べ下さい)





「お茶」とその「作法」が伝わり、その「頂き方」を真似する。中国内での変化、朝鮮半島を経て形式が変化したものや、日本に伝わってきて解釈や見解から様々な変化をなして「お茶」が特定階層の中で浸透して行く。恐らく見よう見まね的な場合もあったかと思われるので、同じ「道具」をすべて用意したりできたはずが無く・・・それ故真似して別のものを「代用」したことも多々あったかと推測できる。



「代用品」が単なる「変わりの[mONO]」だったものから変化し、時にはその美しさであったり、貴重さであったり、時節に合わせてだったりなどの様々な要因と他の道具との調和や対比を楽しみだしたことが「見立て」の始まりだと思う。




そして「見立て」のものから進化し、千利休の頃から日本独自の「新しい茶」の様式が出来上がることで「道具をつくる」ことも始まった訳である。「斗ト屋茶碗」などは「見立て」にあたる[mONO]だと思う。





では「道具を作る」とは・・・












[tSUBUYAKI]

2010.05.19 「道具を作る」ことと「見立て」・・・

「お茶の道具を作る」のと「見立てて使う」この違いとは・・・



「お茶の道具を作る」ということを解りやすく説明するには利休と長次郎や織部と美濃の陶工たちの関係を思い出してもらうと簡単かもしれない。

利休や織部はそのお茶会や時節、流行りに合わせた道具を考案し書面に書き留める。素材、形、意匠を事細かく記したデザイン画である。
それを見て長次郎や陶工たちが制作し焼き上がった[mONO]の中から利休や織部の「お眼鏡」にかなった[mONO]だけが道具として使用されたり、販売されたりした。

こういった流れが「お茶の道具を作る」ということになるのだろうと考えられる。



じゃあ、「見立て」とは・・・



簡単に言ってしまえば、本来は生活の中で普通に使われていた民芸品や雑器などがその使用期間を経て付いた「わび」や「さび」といったお茶の世界の独自の観点に沿うような雰囲気や趣を醸し出し、雑器から「茶道具」として使用できうる[mONO]となりそれを使用したこと。

例えをあげるときりがないが李朝の茶碗などはほぼそういったものといえるかと思う。






この二つの違いを認識することが作り手にとって考えなければならない大事な点だと前回言いましたが、じゃあそれはどういうことなのか?






「二つの違いを認識すること」=「茶道の由来やその変遷を知ること」に他ならない。







次回、「茶道の由来やその変遷を知ること」をふまえて「二つの違い」を考えようと思う。





[tSUBUYAKI]

2010.05.17 お茶のお道具・・・

先日お茶のお稽古の時、お稽古仲間の一人がとある若い作家さんの「茶入れ」を持参し

「先生、皆さんにご意見を伺いたい」

ということがあった。




お茶のお道具というものは難しい。

特に「茶入れ」は・・・





茶道とは本来

「只、単にお茶を楽しむ」

というものであるが、関わりを持っていけばいくほど

「道具、空間、人、季節気候時間を含めた状況などのその時に関わるすべての[mONO]の取り合わせのバランスとか調和を楽しむものでもある」

と思う。

それ故「茶入れ」が良いか悪いかはまずは重要ではなく「どの茶席で使うか」、もしくは「使えるか?」という事になる。茶入れ単体の「景色」とか姿の「品」とかいう話になれば「大きさ」「重さ」「手触り」などなどあらゆる点でチェックする点もあろうかと思うが「お茶会の取り合わせ」となればその「欠点」すらもバランスとか調和に必要になる場合もあり得るのでなかなか判断は難しくなる。




「茶入れ」の善し悪しは別にして、作り手にとって考えなければならない大事な点は二つ、

ずばり


「お茶の道具を作る」のか「できたものをお茶の道具に見立てて使う」


のかであると最近つくづく感じる。



「道具を作る」のと「見立てて使う」この違いが解らなければ全く話が先に進まないがお茶のお道具を制作するにあたって、その違いこそが作り手にとって最重要ポイントであると思う。



じゃあ「道具を作る」のと「見立てて使う」この違いとは・・・







次回それに触れようと思う・・・

[tSUBUYAKI]


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